こんばんわ。
オーナーの宮本です。
2日前になりましたが、
富山で、私の大好きな社長であります、
福建の福野社長の娘さん?とお母様?だったけな?
なのせSOLIDで家具を購入いただきまして、
ワタクシ全ての予定を放り投げ(笑)
土屋君と浦ちゃんを引き連れまして、
配送に行ってまいりました。
なんで私が福野社長が好きかといいますと、
外構や基礎工事を手掛ける、
決して大きくはない会社を営む社長さんではありますが、
私と随分境遇が似ていて共感できちゃうんですよね~(*^-^*)
と言うのは若干失礼だな。。。
10代で父親を亡くし、借金まみれになった経緯は似ていると言えますが、
何でもブログで公表しちゃう私ですら言えないほどに、
福野社長は遥か想像を超えるような、
過酷な人生を送ってこられた方である。
歳は、私の10個ほど上やろか。
出逢いは2年ほど前。
私がとある経営者の集まりで、講演会を頼まれたときに、
そこでお知り合いになったのが福野社長でした。
講演会の後の懇親会で、
随分、強面のヒトがいるな(笑)と感じていたのですが、
その時に話しかけられたのが福野社長。
「きょう実は、あんたの顔を見た瞬間に、
どえらい奴が講師で来たなと思った」
続けて、
「ワシね。。。あんたのことが、よくわかるんや。」
「何年も忘れかけていたのに、あんたの顔を見て、
久しぶりに昔の自分を思い出した。」
と言いながら、私に話しかけてきてくれたのが最初の出逢いです。
人生の大先輩ではある人に、
こう言う言い方は失礼なのかもしれませんが、
なんて言うかな。。。
普段は強面な顔にも関わらず(笑)、
笑った顔が、
本当に優しさに溢れたような顔をされるんですよね。
なんだがその笑顔を見ている自分が、
凄く気持ちが良くて、温かい気持ちになれると言えば良いのか。。。
福野社長を見ると、自分が歳をとっても、
自然とあんな笑顔になれるヒトになりたいな~と、
思わせてくれる、実に不思議な社長さんです。
というのも、きょう、
久しぶりにネットのニュースで、
元近鉄バッファローズの、
ブライアントの記事をよんでおりました。
ちなみにブライアントって知ってますか?
簡単に彼の経歴を説明するとですね。
1981年6月のドラフトで指名され、米国ドジャースと契約。
マイナーではよく打つのだが、メジャーでは確実性のなさが低評価となり、
3年間、79試合の出場にとどまる。
87年のオフ、日本の中日ドラゴンズからオファーがあった際に、
当時ドジャースのラソーダ監督に直接、
「来年は出番があるか?」
と尋ねたが、
「少ないだろう」との返事。
ここにいてはチャンスが無い。と感じたブライアントは、
いわゆる、
ジャパニーズ・ドリームを求め、日本行きを決意する。
日本には、1988年に来日。
ただし、当時外国人選手の一軍登録は2人だけ。
中日はゲーリー、郭源治が好調で食い込む余地がなく、
開幕から長い長い二軍生活。
ブライアントは、そんな当時について、こう話している。
「日本での当初は、苦労した記憶しかない。
朝が早いし、練習がハード。
日本語が理解できないのに通訳もいない。
まるで軍隊生活をしているみたいだった」
と振り返っている。
しかし、思わぬところから幸運が舞い込む。
近鉄のデービスが大麻不法所持で逮捕され、解雇。
急きょ申し出があり、6月27日、
中日から近鉄への金銭トレードが急遽決定。
ブライアントの野球人生は、そこから大きく変わる事となる。
最初の5試合で勝利打点4と鮮烈デビュー。
閉幕までに74試合の出場ながら打率.307、34本塁打、73打点。
当時は、西武黄金期時代の真っ只中で、
近鉄は戦力が整わない中、
猛烈な勢いで、独走していた首位西武を追走し、
ブライアントの奇跡的な大活躍を背景に、
残り二試合のダブルヘッダー(その後、この試合は伝説の10.19と呼ばれる)に、2連勝すれば、
逆転優勝という位置にまでこぎつけた。
優勝のかかった試合が続く中、
ブライアントのお父様が危篤となるも、
「父親は、自分が日本で活躍する日を夢に見ているんだ」
「父親の為にも、日本に残って、共に戦う仲間を助けたい」
と、
ブライアントは最後まで日本に残りチームに帯同。
勝てば奇跡の逆転優勝がかかった、シーズン最終戦。
まさに近鉄快進撃の立役者となり、
伝説の「10.19」に出場したブライアントが、
そこで34本目の本塁打を放った時は、
正直、ワタクシ感動して、意味も無く身震いした。
ブライアントの活躍の、その陰には、
近鉄の中西太コーチとのマンツーマンの練習があったと言われる。
その後、中西コーチは、
当時のブライアントを思い出し、こんな話をしている。
「肩が開かないこと、アッパースイングになり過ぎないことだけを言って、
ひたすらトスバッティングをやった。
とにかく練習熱心な外国人。
前から投げたり、横から投げたり、いろいろやりながらね。
ボールがワシの体に当たったり、
バットが手に当たることもしょっちゅうだった。
トスバッティングひとつですら、
長いときは40分くらいやったね。
アイツには、日本で絶対に成功しなきゃいけないんだ!
という、尋常じゃないハングリーさがあった」
振り返っている。
日本での滞在中、記録にも、記憶にも残る大成功を収めたブライアントは、
ファンを大切にする事でも有名だった。
晩年に、近鉄を解雇になった年ですら、
わざわざファン感謝デーに来てくれて、
ファンを喜ばせてくれたり。
ファンが、近鉄名古屋駅で会った時は、
いつも笑顔で、頼まれると気兼ねなくサインや他愛もない話をしてくれる。
そんな野球選手だったブライアントの笑った顔が、
幼いながら、ホントに好きだったんですよね~~(*^-^*)
なつかしいな~~。
随分と話が脱線してしまった(毎度のごとく…)
ちなみに、
私が何を言いたかったかと言えば、
今のミヤモト家具は、
当然に道半ばで、
これから大変な事も沢山待ち構えているのだろうと、
容易に想像できるし。
しかしながら、ここまでやってこられた背景には、
努力だけではどうにもならない、「運」があったのは間違いない。
ブライアントだって、当時近鉄のデービスが大麻不法所持で解雇されなければ、
日本で1軍の試合にすら出られなかった。
ミヤモト家具のこれまでの道のりを振りかえると、
家具の神様?が降臨したかと思えるほどの、
奇跡的な「幸運」が数多く存在したと思うし、
福野社長の話を聞いても、
そこには運が良かったと思うしかないような出来事もある。
つまりは確信は出来ないけど、
おそらく、この「運」という奴だけは、
努力している者にしか掴めないし、
努力を怠った者の前では、通り過ぎてしまうもので、
大概人生、成功したヒトは決まって
「運がよかった」
と言っている。
きっと、
ブライアントや福野社長もそうですが、
お客様や仲間を大切にすることは当然で、
そこに、
幸運と努力。
その2つが重ね合わさったとき、
シンデレラ・ストーリーは生まれるのだと思う。
うん。
ミヤモト家具も、
そして・・・
この不可解な不良娘も・・・
元タンス屋のシンデレラになれるとイイですね(笑)
というわけで、
え~~
あしたも当然、全力で頑張ります( ̄▽ ̄)笑
それでは皆さま。
きょうも笑顔で
ごきげんよう(*^-^*)
家具屋って、いい仕事やな。。。ホンマに(^^)/~~~
株式会社ミヤモト家具
https://www.miyamoto-kagu.net/corp/
INTERIOR SHOP MIYAMOTO
https://www.miyamoto-kagu.net
Vintage Factory
https://www.vintagefactory.jp
Interior Proshop LOWVE
https://www.kagu-lowve.jp
SOLID FURNITURE STORE
https://www.solid-furniture.jp
代表取締役 宮本 豊彰